こんにちは。今回は私が自分の信仰と向き合い始めたきっかけについてお話ししてみようと思います。
証
まず私の両親についてですが、元々どちらもノンクリスチャン家系で、母が結婚してからクリスチャンになりました。私は生まれた時からそんな母に連れられて毎週日曜日は教会に行っていました。小さい頃から罪の意識や生と死について、世の始まりや死後の世界、神様の存在についてよく考えることはありましたが、真剣に自分の信仰と向き合い始めたのは中学1年生の頃でした。
日曜学校の中高生クラスで担当の先生の一人からある質問をされたことがきっかけでした。それは「みんなはどうして教会に来ているの?」という質問でした。教会には同世代の友達もたくさんいて楽しかったので苦と感じたことはなく、学校と同じで自分の意思でというより当たり前のように毎週行っていたので、教会に行く理由など考えたこともありませんでした。そのため「なぜ教会に来るのか」と聞かれ少し戸惑ったことを覚えています。その時わたしは模範解答のように「賛美をして聖書のお話を聞いてお祈りするため。」と答えました。
私の答えは教会に来て何をするのかという内容でしたが、その時その先生が言われたのは「神様に会うため」ということでした。他にもいろいろ説明してくれたのですがその答えがずっと私の頭の中を巡りました。それまで私は神様に会いにという意識をもって教会に来たことはなかったので、私の礼拝に対する姿勢を見つめ直させられました。気づけば賛美をしていても内容や神様に焦点をあてず、歌詞や音程を間違わないようにとか、頭で他のことを考えながら声に出して歌っているだけのようになっていて、祈りは形式的になっていて心が入っていないように思いました。礼拝は神様に捧げるものであるはずなのに、ベクトルが自分を向いていて教会に来ているのに私の礼拝の中には神様がいないような状態になっていることに気がつきました。
そしてその次の日曜日、礼拝の前に祈りの時間を持ちました。「神様、今あなたに会いにきました。あなたがいるということをどうか私にわかるように示してください。」と真剣に神様を求め、心にある思いを伝えました。(一言一句この通りではありませんでしたがこのような内容のことをお祈りしました)それから始まった賛美では内容を思いながら神様に集中してささげました。するといつもと同じ賛美なのかと疑うほどに心が満たされ(心に触れられたという表現でも良いかもしれません)、温かいもので包まれるような感じがして、イエスさまは今生きてここに共におられると強く感じました。
この一連の出来事をきっかけに、今まで以上に神様を知りたい、真理を知りたいという気持ちが強くなり、飢え乾いた心で自ら求めるようになりました。自分から求めるようになるとみことばやメッセージが心に響くようになりました。自主的に聖書を読み始め、進化論や創造論に関しての本などキリスト教関連の本を読み漁り、徐々に信仰が確立されていきました。そして母が信じているから自分も自然的に信じるというのではなく自分の意思でイエスさまこそ私の救い主だと信じ受け入れるようになりなした。また、私のことを私以上に理解し、私に最善のものを与えようとしてくださっているこの方に自分の人生を託そうと決心しました。
追記
今回はきっかけの部分について記しましたが、そのことを今振り返っての感想を少し述べてみようと思います。
誰しも育った環境や教育によって信念・世界観・正義感みたいなものを持っていると思います。当たり前に信じていることや、なぜか反対したくなる価値観など、一度立ち止まってその自分の信じていること(また信じていないこと)や持っている価値観と向き合うことはクリスチャンかどうかに限らず大事だと思いました。親が信じているから必然的に、だった頃から自分の意思で信じるようになったのは大きな変化です。私の場合はいろんな疑問がありましたが追求していった結果やはりここにしか真理はないという思いに至りました。今でももちろん全部わかっているわけではありませんが、信じるに十分な証拠はすでに提供されていると思っています。
小さい頃から教会では神様は存在していて、全地を創造したと教わっていたのでそれを信じていましたが、神様を感じたいと強く思っていました。神様を感じないから神様が本当にいるのか分からない。という感覚に軸を置いていたのかなと思います。神様が創造した被造物や聖書という十分なものを与えられているのにそれを読まずに、神秘的なものや奇跡をこの目で見たい!と思っていました。
今は感覚だけを軸に信仰を置くのはあまりに不安定だと思っています。一度感じたとしてもしばらく感じないと、あの時は本当に感じたのかな?あれは本当に神様だったのかな?と疑いが出てきます。また、悪霊にもそういった奇跡は起こせます。なので奇跡が起きたら本物、自分の願いが聞かれたからこの神様(宗教・教え・占い等)についていこう!とそれだけに重きを置いてしまうのはかえって危ないと思います。他のものに頼るとき、自分の願い通りになって一見幸せな道を進めていると感じることもあるかもしれませんが、本物以外虚しく、滅びに向かうだけです。
あの日曜日の礼拝は私にとって特別で、初めて礼拝が生きたものになった経験でした。ただあの時のことだけで数十年の信仰を貫き通せるかというとそうではないと思います。私が自分の信仰と向き合い、聖書を読み、神様と関係を築いていく中で少しずつ信仰が確かなものへと変えられていきました。
もしこれを読んでくださった方が仮に私と同じように祈っても、私と同じようなことは起こらないかもしれません。神様のタイミングは一人一人違うので何が用いられるかは分かりませんが、最善のタイミングで主が働かれることを期待します。
また、あの時のような礼拝を毎週持てているかというとそうでもありません。賛美中や牧師のメッセージ中に他のことを考えて全然話が入らず、今何の話だっけ?となることもあります。。髪型や服装を気にしてしまうこともあります。礼拝前に静まり、思い煩いの一切を委ねて、主に喜ばれる尊い礼拝となるよう神様との時間を持つことを毎週続けていければと思います。
当時必要な質問とメッセージを与えてくださった主に感謝します。
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